白じゃないといけない、
って誰がいったの?

黒だっていいし、
時には別の色を選んだっていい。

カラフルな中から
自分の「ちょうどいい」を
選び続けようよ。

チェンジメイカー

未来を動かす変⾰者たちへ

NOKs Labo

ここは「⾃分」を探求しつづける
ラボラトリー。

⾃分と、その集合体である組織、のみならず
社会全体の関わりから「個」を⾒出していきます。

いつからか⼤⼈たちは「結果」を求められるようになりますよね。

最短・最速で達成するには?
⽩か、⿊か?

期待に応えようと突き進む中で
⼀定の成果ややりがいを⼿にすることもあるけれど、
固執しすぎると⾏き詰まってしまうことも。

成功したかのように⾒えても
本当にそうかはわからないし
失敗したからこそもっと⼤きな
成果を⼿に⼊れることもある。

嬉しくても、悲しくても
「今」は続いていく。
だから、忘れないでほしいのです。

⽬の前で起こっている出来事と
渦中にいる⾃分を冷静に⾒つめることを。

内から、外から。
過去から、未来から。
近くから、遠くから。

好奇⼼を持って
あらゆる⾓度から観察していると
やがて⾒えてきます。

今の⾃分にとって「ちょうどいい」が。

NOKs Labo

⾃分と、⾃分をとりまく環境を⾒つめ、
多くの選択肢を⾃ら置き続けていく。

道中を⾯⽩がっているうちに
気がついたら想像以上の結果に辿り着いていた、
なんてことも、きっとあり得ることでしょう。

私たちは、そういう流れに伴⾛いたします。

ようこそ、NOKs Laboへ

Service

  • エグゼクティブコーチング

    現在、もしくは未来において、リーダー・経営者としてビジネスを牽引する⽴場にいらっしゃる皆様のコーチングセッションをいたします。「⾃分の考えや⾏いが他⼈に伝わらない」「未来に⾃信が持てず、常に迷いがある」「孤独感がつきまとう」そんな思いを抱えている⽅の内⾯を共に探求し、ビジョン設定やアクションへの伴⾛を⾏う。代表⼭﨑直⼦によるリーダーのためのコーチングです。

  • 組織開発
    (システムコーチング/ 体験学習)

    組織全体をひとつの「⼈格」として⾒つめながら、その組織の中で起こっていることや課題を顕在化し、アクションプランの設定に寄り添います。組織という集合体と、それを動かす「⼈」にフォーカスし、それぞれの関係性と影響⼒を紐解いていく。組織を⾒つめるもうひとつの⽬となり、組織の可能性をを広げるためのプログラムをご提案いたします。

  • 講演

    官公庁、地⽅⾃治体、企業、学校などで講演を⾏なっています。キャリア/ 組織におけるリーダーシップ/ ハラスメント研修/ ⼈⽣設計(⾃分の⼈⽣を⽣きること)など、ご要望に応じて切り⼝をご提案いたします。

  • 財務に関するコーチング

    外資系⾦融機関のウェルスマネージャーとして、多くの経営者・リーダー層の⽅とお仕事をご⼀緒してきた経験を活かし、個⼈資産家の財務アドバイスも承っております。ビジネスや資産運⽤に関するご相談はもちろんのこと、ときにはご家族のこと、⼈⽣のこと、命を全うした後のことまで。⼤切にしていること・課題を共に⾒つけ、それらに対応していくためにプロとして向き合ってきたキャリアを活かしてご⽀援いたします。

サービスのお問い合わせはこちらより

Profile

⼭﨑 直⼦

コーチ / ウェルスマネージャー

1969年生まれ。大学卒業後、大手信託銀行に一般職として入社。窓口・事務・営業インストラクター・本店主任を歴任する。33歳の時「お前自身は何をしたいの?」と上長に問われ「ない」ことに愕然。「自分のない人生」を変える決意で異動希望を提出し、「資産10億円以上の顧客担当ウェルスマネージャー」として歩み始める。
2007年には外資系金融へと転職。順調にキャリアを重ねていくも、愛を込めた遺言書に対して配分割合しか見ないご家族を見て、顧客が孤独であると気づく。そこに寄り添う方法のひとつとしてコーチングを学び深めていく中で、財というかたちあるもの、心というかたちないもの、両方を共に見つめる支援ができるようになっていく。
2019年には合同会社NOKs Laboを設立し、後に独立。現在はコーチ・ウェルスマネージャーとして、エグゼクティブの人生に伴走するほか、ライフワークとして厳しい環境にあって「孤独感」を抱えている若者たちに寄り添い、彼らが未来を切り開くサポートも行っている。
2021年には組織・関係性のための認定システムコーチ(ORSCC)®の資格を取得し、人や資産に加え組織の成長にも伴走している。

License

国際コーチング連盟プロフェッショナル認定コーチ(PCC)
組織・関係性のための認定システムコーチ(ORSCC)®
ライフコーチワールド® 認定ライフコーチ
リーダーシップ・サークル® ︎認定プラクティショナー(LCCP)

Media

Partnership

株式会社EoD 執行役員

Special Exhibition- 実録「山﨑直子という人」-

  • 1969年(0歳)

    1969年(0歳)
    横浜市にて4,200グラム級でこの世に登場。病院では「ジャンボちゃん」の愛称をもらう。
    1軒屋の1階には未婚叔父3人と祖母の4人。2階には両親と兄と私。男7人兄弟の父の下に初めて登場した女児に、喜びと戸惑いを運ぶ「ジャンボちゃん」。
    1970年(1歳)
    私の人生最古の記憶は、母が入っているトイレを覗き、祖母に頭を叩かれるという黒記憶から始まる。
    乳児を置いて、意気揚々とテニスに行った母がアキレス腱を切って1ヶ月半の入院という天罰か、休息のご褒美か。
    私は一人で叔母と祖母の家に預けられた。
    私を振り払うように怖い顔をして、慌ててドアの向こうに行こうとする母、また一人置いていかれると思い、必死についていく私。
    ここで、トイレはたとえ母親であってもついて行ってはいけません。と人間界の掟を一つ学ぶ。
    1972年(3歳)
    幼稚園の入園テストで俯して号泣。一つも答えることなく、面談終了。帰り道は母が号泣。しかしながら、「こんな子はうちでしか預かれないでしょう。」で合格!
    キリスト教の幼稚園に救われる。アーメン。
    1973年(4歳)
    幼稚園で同年代の子供に初めて出会う。泥饅頭を両手に掲げ、奇声をあげて走り回っている男の子を見て「マジでむり」と登園拒否。
    1974年(5歳)
    幼稚園史上初。「ふじ組幼稚園児椅子積み上げ籠城事件発生」新人だった担任の先生を号泣させる。ふじ組みんなで、先生をなでなでしてあげる。
    父親の部下が夜遅く来て終電まで帰らない中、中耳炎を発症した私は、襖の隙間から部下を睨みつけながら痛みに耐える。
    翌日、耳鼻科で親はえらく怒られる。
    1975年(6歳)
    新しい家に引越しの日。ポットのお湯が足にかかったが、忙しくしている親のために我慢。結果、中度の火傷となっており、今度は皮膚科で親はえらく怒られる。
    小学校に行っても、学校に行きたくない日は続く。行かせようとする親と行きたくないと泣き叫び柱にしがみつく親子の攻防の毎日。
    1976年(7歳)
    ご近所のオルガン奏者にオルガンを習い始める。オルガン奏者は少ないので日本を代表する奏者になれちゃうかもと信じていた。
    1977年(8歳)
    「日本人女性の平均寿命が78歳に。」とニュースで聞き、今の10倍も人生が続くのかと愕然とする。
    1978年(9歳)
    「24時間テレビ 愛は地球を救う」で、アフリカの飢餓に苦しむ子供たちの映像を見て、自分はなぜ日本に生まれたんだろう?の問いが立つ。
  • 1979年(10歳)

    1979年(10歳)
    念じると熱が出るという技を取得し、進級が危ぶまれる登校ペースとなる。
    1980年(11歳)
    母親と担任の間での密約により、強制的にミニバスケットボールチームに入団させられる。
    2人組を組むために声掛けすることができない私は、ピアノの影や更衣室に隠れて練習をやり過ごしながら毎日の朝練を耐える。
    ミニバスケットボールチームの監督が担任だったことで、バスケから逃げられない状況に追い詰められる。
    卒業までの2年をサバイブするためには上手くなるしかない!と思考を転換。毎日電柱をゴールに見立てて、自主練の鬼と化す。その甲斐あって、レギュラー「6」の背番号を手に入れる。
    同居していた祖母の死に立ち会ったため、「あの世」「死」「ゼロ」について日々思いを馳せる。
    1981年(12歳)
    中学校で「新入生代表の答辞」をよむ。
    バスケットではエースとして充実。勉強もできちゃう。この年でこんなに上昇していたら、私はこの先どうなるかとにやつく。
    1982年(13歳)
    兄が北海道の大学に入学したことで、私の一人っ子生活が開始。
    1983年(14歳)
    時代的に校内暴力真っ只中の中学校において、先生に対する反抗心がピークに。不満があった担任の授業は1年間後ろを向いて受け続けつつも、テストは高得点を叩き出す。
    合唱コンクール・体育祭・文化祭などのイベントでは、イキイキと実施のために奔走する。
    1984年(15歳)
    興味を持てない勉強に関しての成長曲線がフラット化する。
    最後の2ヶ月で追い込み、第一志望の県立高校に爪で引っかかるかのごとく入学を許可してもらう。
    1985年(16歳)
    上下関係重視の部活に嫌気がさし、バスケットを辞めてしまう。
    打ち込むことがなくなり、息をするのも辛いほど生きるのが辛く感じる。ホームの先頭に立つのを避けていた。かつての「できる子」はどこかに消え去ってしまった。。。。
    1986年(17歳)
    「とはいえ、なんとかなる」と思っていたが、そのバッファーもなくなり、「どうにもならない」ことを大学受験失敗で思い知る。
    1987年(18歳)
    「脱一人っ子生活」を狙って受けた「北大」は、試験前に景気付けにと思って聴いた「ラデツキー行進曲」によって、そのまま裏門から行進しながら出てしまうことに。
    その結果を知った母親が拍手していたのを見て、兄は出来るのに、私はダメ。親の中にある男女の差意識を実感した。
    1988年(19歳)
    「せっかく地球に生まれたのだから、世界をこの目で見て、足で歩いて、会話をしたい。」その第一弾でオーストラリアへ1ヶ月ホームステイ。
    家族の在り方、夫婦の在り方、コミュニケーションの取り方、何もかもが新しく、私の中の扉が大きく開く。
  • 1989年(20歳)

    1989年(20歳)
    世界は広い。知らないことがいっぱいある。知りたいことは自分で取りに行かないと待っていては受け取れない!若いうちは、後進国に。年取ったら先進国に行こうと決める。
    手始めにフィリピンに2週間、ホームステイする。お湯や水が当たり前に出るのはすごいことだと知る!
    1990年(21歳)
    メキシコ・キューバに1ヶ月の旅。カストロやゲバラと共に革命を起こしたメリダさん(当時大臣)にお会いし、話しを聴き、違う次元を実感する。
    地球には自分ではどうしようも出来なく大変な子供たちがいる。その子たちをサポートしたいと考えていた私は、中村哲医師の活動を知る。
    やりたかったのはこういう活動だ。この在り方だ。と思いペシャワール会に連絡したが、「女性が行くのは非常に危険であり、あなたが現地に行くとなると、ボディガードを何人もつけなくてはいけない。あなたにはどのような技術、資格がありますか」と聞かれ、何もない自分の無力を実感。
    1991年(22歳)
    兄が結婚。守ってもらっていた存在がいなくなり、寂しくてしょうがない。
    1992年(23歳)
    結婚相手が見つかるまでの腰掛けのつもりで就職した日系の信託銀行。休暇がたくさんあり、忙しくないと聞いていたのに、配属先は日本一忙しい支店。流石、一流の会社の人事は人の特性をしっかり見抜いていらっしゃる。。。
    1993年(24歳)
    着付け・日本料理・フラワーアレンジのお稽古を始める。
    着付けは後に、着付師1級(10分で自装、15分で振袖を他人に着付ける)を取得。
    フラワーアレンジは、友人や先輩たちの結婚式のためにブーケ等20個以上を製作実績あり。
    日本料理は、いつも遅刻で出来上がった頃に登場。食器洗いと片付けはプロ並みになる。
    1994年(25歳)
    高校から常に一緒だった親友に彼を巡って、裏切られる。
    人間不信となり、人との距離を取るようになる。
  • 1999年(30歳)

    1999年(30歳)
    ミスが続いた事務方の我々に対して、「今の状況をまとめてレポートしなさい」(反省文のつもり)と副支店長に言われ、うっかり「支店の現状に至らしめている要因をあらゆる角度から分析したレポート」を提出してしまい、支店長の逆鱗に触れる。飛ばされるはずが、本部からインストラクターの指名が来ていたため、結果として栄転してしまう。
    インストラクターとして、全国の支店を回る日々。「日本一忙しい支店の営業室にいました!」を印籠のごとく振り翳し、支店長への耳痛い指摘も「三方よし」のためにしていた。当然、出禁を言い渡されることもあり。夕方になると鼻血が出るのが日課となる。
    2000年(31歳)
    「本店営業部を全支店の手本となるようにするのだ!」という役員の号令によって、インストラクター代表で本店営業部の窓口責任者(主任)として、異動となる。
    事務方 > 窓口 のパワーバランスを 事務方 = 窓口 にするべく、睡眠時間3時間で勤務。
    接客中に白昼夢。「これでよろしいですね。」という自分の声に我に返る。何が良いかわからないが、「お客さまは満足そうに笑顔で頷いているぅ〜。けど、どうする?どうする?私?」となる。これはさすがにまずいと会社近くで一人暮らしを親に嘆願する。
    その時の親との約束は2つ。
    • ① 平日は仕方ないが、週末は帰ってくること。荷物も最低限のもののみ持っていくことを認める。
    • ② 嫁に行くことが決まったら、実家に戻ること。嫁には実家から出します。
    そうです、私、箱入り娘だったんです。
    2001年(32歳)
    洗濯に夢中。全てのスーツやコートまで、自分で洗いアイロンかける技術を取得。
    自宅で洗濯講習会を開催するまでに成長。
    2002年(33歳)
    「山崎はこの会社で一体何をやりたいのか?」と部長に尋ねられる。どうせ聞き入れられないと思って、「最終的にはこの会社で一番の大口顧客を担当したい」と回答。
    「やりたいなら、今すぐやってみろ。3ヶ月猶予をやる。そこで成果が出なければ、どこかの支店に異動させるから」と追い込まれつつも、チャンスをもらう。
    一発勝負だったら不動産だろう!ということで、不動産のエース営業とその上司に直接交渉し、一か月の同行研修を取り付ける。
    結果、不動産ではなく遺言書作成・保管契約の受託だったが成果を出せたことで、プライベートバンカーとしての職歴を開始させる。
    2005年(36歳)
    総合職に転換。総合職の同僚たちに背中を押してもらう。
    2007年(38歳)
    勤続15年でもらえる1ヶ月休暇。同期3人でアフリカの旅へ。
    世界は広い。もっと思考も行動もフィールドを広げたい。と思い、休暇明けに退職届を出し、外資系金融機関にウェルスマネージャーとして転職。
    親も歳を取ってきたので、実家に帰ろうとかと申し出るが、「あなたがいると、私たちの生活リズムがかき乱される」と親に同居を拒否られる。
    ここまでの人生は、親も期待していた結婚=専業主婦=夫を支える生活をイメージしていた(ピカソで例えるならば、ここまでが青の時代)が、ここからは自分が思うままに、キャリアを積んでいく生活が始まった。(ここからは、どんどん作品がデフォルメされていく)
    どうも、親が用意していた箱にはどうにも収まらなくなってしまったらしい。
  • 2009年(40歳)

    2010年(41歳)
    料理は、「作ってもらうか、買ってきたものを温めるものなのだ」として、諦める。
    2011年(42歳)
    「いつか、子供たちをサポートするために戦闘地域にさえも行こうと思っているような自分が、今東北の震災の支援のために現地に行かなくて、いつ行くんだ。時は来た!」ということで3週間後に2週間の休暇を取り、テントと寝袋、自分が使う水と食料を持って石巻、南相馬にボランティアとして入る。
    肩書きなく、一人のボランティアとして、混乱している現地で、臨機応変に作業する中で、自分には多種多様なリーダーシップが備わっていることに気づく。
    被災した方々と接する中で、人は、助けられるだけではダメで、どこかからサポートされる、自走する。という段階に移っていく必要がある。ということを実感する。
    2012年(43歳)
    ボランティア活動している私に対して上司が「他人のことを助けている場合か?数字が上がらないと会社にいられないぞ。」と言われ、憤る。
    ここで、仕事と社会貢献の両方を取ることを選択。「やりたいことをやるためにどうすればよいか、人がやらないからこそ、可能性があるし面白い。」という志向を手に入れる。
    「社会貢献といえば、山﨑。山﨑といえば社会貢献」と言われるまで徹底的に活動すれば、むしろ仕事にも役立つ。との発想となり、さらに積極的に活動するようになる。2012年のボランテイア活動は400時間を超える。
    多様な背景をもつ子供たちをサポートする活動も開始。
    2013年(44歳)
    会社で「Global Employee Volunteering Award」を個人で受賞。
    2014年(45歳)
    部長となり、プレイングマネージャーとしての役割が増える。
    ウェルスマネージャーとして、部長として、ボランティアとして3足の草鞋を履いた生活を送る。
    同姓同名のご縁で「宇宙飛行士山崎直子」さんとダブル山崎直子で社内セミナーを実施。その後、複数回ダブル山崎直子でセミナーをさせていただく。
    2015年(46歳)
    一般社団法人日本女性エグゼクティブ協会の運営委員として、年間9〜10のセミナーを企画運営。
    最も大変だったのは、「女性官僚を囲む会」と題した、当時安倍首相、ケネディ駐日アメリカ大使をはじめとして、経団連会長、経済同友会代表幹事にもご臨席いただいたセミナーの運営。仕事が終わった後、毎日協会事務所で12時過ぎまで準備作業し、当日現場を仕切ったのは後々の自信に繋がっている。
    そして、一方でコーチングに出会う。紹介されたコーチに「あなたは、決して天使(良い人)ではない。」と言われ、怒りと共にパンドラの箱が開く。見ないようにしてきた本当の自分(嫉妬や恐れ、妬み、自慢などの自分)をしっかりと見つめて受け入れる。
    2016年(47歳)
    人生で自分が避けてきた「美」に対して、向き合うことを決めた。
    目標がないと難しいということで、どうせならやってやれと、「ベストボディジャパン」優勝を目指す。食事コントロール、週3のパーソンナルトレーニング、毎日朝晩1時間ずつのウォーキング。元準ミスユニバースによるウォーキング・ポージングレッスンの日々。
    入賞はなかったが、1年かけて自分が考える「美」を実現させることに成功。大会前の苦しい減量とトレーニングの中で、身体と思考はまるで別の人格を持っているかのようで、頭で考えていることを私の身体は一生懸命サポートしてくれている。という感覚を手に入れることとなり、これがこの後の私の人生を変えてくれることとなる。
    「頭で考えるな。感じろ。」と言うようになる。
    尊敬の存在である父が逝く。その逝き方が私の人生を変える。
    亡くなる2ヶ月前に家族が集められ、「エンディングノート」の内容を伝えられる。
    同時に、「人生において、あの時父が何を考え、何を選択したのか」を語り尽くしてもらう時間を過ごし、今までで一番父を近くに感じることができ、理解することができた。そして、「母の腕の中で死にたい」と言う願い通り、母に抱き抱えられながら逝く。「あっぱれ」「お疲れ様でした」と声をかけて父を送り出した。
    逝った父によって、「ホールインワン」のご褒美をもらう(父がもたらしてくれたと信じている)。下りた保険金は全て私にゴルフを教えてくださった方と分かち合う。
    2017年(48歳)
    本格的にコーチングを学び始める。
    2018年(49歳)
    同じ歳の友人と50歳を祝うパーティーを開催(まだでしたが)
    なりたい自分になれる場を作りたい。と言うことで、皆さんが「芸」を発表できるステージを用意。
  • 2019年(50歳)

    2019年(50歳)
    身体が感覚を通して教えてくれるままに進むと、チャレンジが止まらない。
    付き添いのはずが、自分でもやりたくなって、自転車で北海道440キロを走る。途中、疲れで5回ほど転けたが、なんとかこの距離は走る。
    子供たちとのキャンプで若者相手に鬼ごっこにムキになり転倒し、指2本骨折。救急車で搬送される。その後も元気にアクティビティをこなす私をみて、子供がおののく。
    コーチを仕事として続けていくことを決め。その証として、会社を設立:合同会社NOKs Labo。
    2020年(51歳)
    新型コロナウィルス感染症による行動制限がひかれる。
    新型コロウィルス感染症による行動制限が解除された時、世界は大きく変わってしまっていると感じ、その時に自分も大きく変わって時代の半歩先をいくためには、今歩き出さねば!と感じて会社員生活を卒業することを決める。
    2021年(52歳)
    エグゼクティブコーチとしてクライアントに関わっていると、個人だけが変わっても組織が変わらないと、個人の絶望が待っている。と言う壁にぶつかり、組織をコーチングするシステムコーチ(ORSC)と体験学習(株式会社EoD)の学びを開始。新しい視点を手に入れて、本格的に資格を取りに行く。
    2022年(53歳)
    米国CRR認定 関係性システムコーチ(ORSCC)認定を取得

About

会社名
合同会社NOKs Labo
設立日
2019年
所在地
東京都中央区日本橋2-1-17 
丹生ビル2階
事業内容
コーチ業・コンサル業
主要取引先
  • 【個人】

    会社経営者・役員・マネージャー・学生(就職活動・受験に向けて)
  • 【法人】

    金融機関・中央官庁・教育機関・老舗料亭・外資系ラグジュアリーブランド・演劇・映画制作・NPO・等

Client Voice

抱えていた不安が薄れ、
環境に振り回されなく
なりました。

お名前
C.H
業種
小売業、コンサルティング業
役職・肩書き
代表取締役
ご依頼内容
エグゼクティブコーチング
どんなお悩みがあり、ご相談くださりましたか?
自己評価が低く、常に正解を探してしまう自分がいました。人生の中で社会にどのような役割を果たすことができるかを考え始めた時期でもあったため、本来の自分と向き合い、理解し、自分を出せるようになりたかったことがきっかけです。
山﨑と関わる中で、どんな変化がありましたか?
コミュニケーションを通じて客観的な指摘をいただく中で、自分をより深く理解することができるようになりました。自身を客観視し、バイアスなく良さを認められるようになりました。結果として、自信が持てるようになり、周りに振り回されることなく、自分軸で生きられるようになりました。抱えていた不安が薄れ、環境に振り回されなくなりました。
山﨑の印象をお聞かせください。
どーんと構えて受け止めてくださる大らかな方ではありますが、何気ない会話の中でいただくフィードバックの中には、こちらの心の機微を感じ取り、ハッと気づかされるものが多く、とても繊細な感覚も同時に持ち合わせていらっしゃる方だと思います。

どんな職場にして、
どんなリーダーになりたいか、
見つめ直したかった

お名前
Y.Y
業種
飲食業
役職・肩書き
料亭の料理長
ご依頼内容
エグゼクティブコーチング
どんなお悩みがあり、ご相談くださりましたか?
自分はどんな人間なのか、職場のメンバーはどんな気持ちで一緒に働いているのか、これからどんな職場にして、その中でどんなリーダーになりたいか、見つめ直したいと考えておりました。
山﨑と関わる中で、どんな変化がありましたか?
色々な事が起こる中で自分自身と職場のメンバーの変化を感じながら仕事をしする中で、今は職場のメンバーのことを考え、悩み続けることも自分にとって大切なのだと気がつきました。
山﨑の印象をお聞かせください。
山崎さんに初めてお会いした時の印象はお医者さんか弁護士さんのような特別な先生のイメージで、少し緊張していました。コーチング中はリラックスムードを作っていただき、厳しい時もありましたが、今は本当にやってよかったと思います。

コンディションが
安定する変化を
実感しています

お名前
S.H
業種
プロスポーツクラブ運営会社
役職・肩書き
-
ご依頼内容
エグゼクティブコーチング
どんなお悩みがあり、ご相談くださりましたか?
個人と組織への相互観察・共有・フィードバッグが盛んな組織風土の会社から、オーナー権限が強力な企業に転職するにあたって、自分が何のために生きるのか、時間を使うのかを確認、フィードバッグを受けられる環境を信頼できる人と創りたかったため。
山﨑と関わる中で、どんな変化がありましたか?
2週に一度、決まった曜日の朝の時間でコーチングセッションがあることで、その間の行動とプランを照らし合わせて振り返ることができました。自身のコンディションが良い時も、そうでない時も、自分と向き合い、信頼しているコーチに安心して報告することで、心身の安定をもたらしてくれる変化を実感しています。
山﨑の印象をお聞かせください。
強くて、優しい人。「チア☆ダン」という映画を観た時に出てきた、天海祐希が演じる女子高のチアダンスの先生が山崎さんとかぶりました。感性、みえないものを感じる力が尋常ではない。オンラインで音声だけのセッションなのですが、声のトーン、速さ、抑揚などから、言葉ででているものだけではなく何かを感じ、自分でも気づいてなかった小さな変化を見逃さずにFBされ、ドキリとすることがままあります。隠しごとはできません(笑)

自分の癖を知り、
それをカバーする行動を
選べるようになりました

お名前
S.K
業種
金融・生命保険業
役職・肩書き
課長
ご依頼内容
エグゼクティブコーチング
どんなお悩みがあり、ご相談くださりましたか?
色々と動いていたものの結果に結びつかず、同僚との協業について悩みがありました。圧倒的な成果を出したいが描けていない上、ケガ・病気で今までと同じ、活動量での結果取得が難しくなっていました。
山﨑と関わる中で、どんな変化がありましたか?
ストレングスファインダーにより、癖や特徴、タイプが分かり、割り切ることができるようになりました。結果からの明確な行動逆算が出来ておらず、無駄が多い事に気づきました。身体を大事にメンテナンスするようになったことも大きな変化です。最高のパフォーマンスを出す準備への重要さに気がついたことで、活動量でカバーする癖を抑え考えて行動するようになり、療養後でも成果がしっかりと出せるようになりました。
山﨑の印象をお聞かせください。
とても親しみやすく、情に厚く、人間身があり、一緒に泣いて頂ける、本当に優しい方で、心の支えとなっております。画面を映さず声色だけで全てがわかってしまい、フィードバックが秀逸で本当に凄い方です。全てを指摘するのではなく、自分で気付き、自立し て行動できるように促して頂いており、かなり成長を感じられるようになりました。

形式的なものではなく、
現場に考えさせる・
体感させる研修でした

お名前
C.I
業種
演劇プロデューサー
役職・肩書き
一般社団法人銀座舞台芸術祭 代表理事
ご依頼内容
リスペクトトレーニング、ハラスメント研修
どんなお悩みがあり、ご相談くださりましたか?
演劇、映像業界では、昨今、セクハラ、パワハラ事案が多く報道されており、演劇公演に向けた稽古を開始するにあたり、リスペクトトレーニング、ハラスメント研修の設計と講師をお願いしました。現在、演劇、映像業界で行われているハラスメント研修には、有事の際に制作側が「キチンとハラスメント研修をやりました」という言い訳の為に、形式的で、実効性に乏しいものが多くあります。今回は、組織や人の関係性を対象としているシステム・コーチングの知見を活かし、演出家と役者、役者と役者といった関係性の中で、如何に稽古場でハラスメントを発生させないか、参加者全員が自ら考え、感じ、行動する中で、他者との関係性について体感することが出来ました。
山﨑と関わる中で、どんな変化がありましたか?
システム・コーチングの理論を基にしながらも、知識としてではなく、体験として、体感として、他者との関係性について、考え、感じることが出来るようになったかと思います。稽古初日、その数日後、本番直前の稽古と3回の研修、トレーニングを通じて、参加者全員が何らかの気づきが得られたかと思います。
山﨑の印象をお聞かせください。
キチンと知識や理論に基づきながらも、圧倒的な熱量で、人の心と頭を振動させる元気玉。

セッション終わった後に
毎回プラスに転じる、
現代の魔法使い!?

お名前
T.M
業種
ホテル業
役職・肩書き
マネージャー
ご依頼内容
エグゼクティブコーチング
どんなお悩みがあり、ご相談くださりましたか?
ここ近年、いろんなことが上手くいかない自分がいました。そして、こんなはずではない、なぜこのようにハマってしまっているのか分からなくなっていました。そこからの脱却と共に、自分が何者なのかを知りたい。やりたいこと、やれることを明確にし、成長・成功につなげたい!との思いをそのまま伝えました。悩みも目標もはっきりしたものがあったわけではなかったのですが、変わりたい!という思いだけで相談させて頂きました。
山﨑と関わる中で、どんな変化がありましたか?
初めに変わったのは、自分に合う行動の軸をいくつか作ることができました。人との付き合いの中での軸、悩んだり迷ったりした時の軸など、すべてのことが0-1ではなく、複数持つことができることで心にゆとりができました。その積み重ねから自分に自信をつけることができ、自分が変わっただけ周りの人も変わってきた気がします。
山﨑の印象をお聞かせください。
ほとんど声だけでの付き合いですが、基本的な印象は純粋に明るく楽しい人。セッションが終わった後に毎回プラスに転じていることが多いため、現代の魔法使い!のような感覚です。私のテンションが上がっているときも下がっているときも基準の位置から俯瞰して寄り添ってもらっていて、いつの間にか自分を見つめ直す機会を得ます。会う機会がないレアキャラな分、異次元の人のような感じです。

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